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松本清張氏と「油屋」の話


当油屋は、江戸時代から油商を営んできました。場所は、下町で柳橋に程近い浅草橋です。当時は、行灯で明かりをとっていましたが、行灯に使われていたのは「菜種油」や「桐油」です。
お皿に芯を立てて、桐油を注ぎ火を灯していたと言います。この、ともし油を販売したのが当油屋の始まりで、以来「升定商店」、分家して「升由油店」、昭和に入り「金田商店」、「金田油化」そして現在の「カネダ株式会社」に成りました。 「升定商店」から分家して「升由油店」に成ったのが、明治38年10月のことです。(詳しくは、 カネダ株式会社ホームページをご覧下さい)

松本清張氏のドキュメンタリー小説「小説東京帝国大学」(新潮社・昭和44年12月初版発行)の中に、ちょうどこの頃の「升定油店」の記述が見られます。
明治35年冬の頃、当時の学生さんと書生さんが、浅草茅町の牛肉屋「米久」で牛肉鍋(小説中の記述を見ると、すき焼きのようです)をつついた後で、新吉原に繰り出すくだりがあるのですが、その途中、現在の浅草橋あたりまで歩き、辻俥(人力車)に乗る部分です。

二人は「米久」を出た。
「いま、何時か?」
工藤が九時すぎだと言うと、
「ちょっと早いばってん、ぶらぶら歩いて行けば、丁度よか」
と、米村は気持ちよさそうに冷たい風に吹かれて歩いた。
この辺に多い鯉幟や雛人形屋の表の大戸はもう閉まっていた。また、西洋食器直輸入諸金物商富貴竈本舗や、洋傘商加賀屋、油並びに両替升定商店などの看板も暗くなっていた。二人は途中まで歩いたが、米村が、これから新吉原まで相当あるので辻車に乗ろう、と言い出し、二人は西洋料理万里軒の前で、引いてきた空俥二台に乗った。


歴史や史実に大変忠実な松本清張氏ですから、当時の古地図を見ながら思いをめぐらしたのかあるいは古文書を参考にしたのか知る由ありませんが、目立つ立派な店構えだったのかも知れません。油屋.comのトップページのイメージも、こんな時代の油屋を想像して描いたものです。
現在では、若者が闊歩する青山から渋谷にかけては、当時は農家ばかりであったという記述も見られます。
また、升定商店以外にもいくつかのお店の名前が出てきますが、現在まで営業を続けているのか、とても興味があります。
こんど、神田神保町の古本屋街を散策がてら、 古地図でも探してみようと思います。

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