宿場と中馬
 
  徳川幕府の治世においては,参勤交代の制度によって,宿駅制度が充実した。幕府は万治2年(1659年),物流と情報網の構築を目的とする道中奉行の職を設けた。道中奉行は,東海道,中山道,日光街道,奥州街道,甲州街道の五街道と,水戸佐倉道を直轄下に置いた。
 江戸時代の城下町では,大手町の近くに伝馬町があった。伝馬町は,領主から特別の保護を受けるのが常であった。江戸の場合,大伝馬町と南伝馬町が五街道へ次ぐ人馬を,半月ずつ交互に担当し,小伝馬町が江戸周辺への人馬を担当した。
 宿場には伝馬問屋が置かれ,人馬の供給や大名と武士の宿泊を生業とした。戦国時代には,自然発生的な商人であサたが,寛永12年(1635年)の参勤交代の制度化に伴って,幕府の役人に準ずる位置付けが与えられた。しかし幕藩体制も18世紀に入ると,民間の輸送業者が台頭して,体制下の伝馬問屋の地位が揺らいでいく。中でも画期的だったのが,信州は伊那の農民が始めた「中馬(ちゅうま)」である。中馬は,当時の常識を覆して一人の人間が一度に3〜4頭の馬を引き,宿場で馬を替えることなく,しばしば宿場のない脇道を通り,スピード輸送を実現した。宿場を使わないので,運賃も安かった。しかし宿場の伝馬問屋等にとっては収入減となったので,問屋側は,延宝元年(1673年)と元禄6年(1693年)に,中馬の営業の制限を求める訴えを起こしたが,却って中馬を公認する結果となった。だがその後も争いが続き,明和元年(1764年)にまた訴訟となった。今度は街道毎に中馬荷物の品目を定め,その他の荷物は宿場を通すこととなり,中馬運送の宿場口銭も明確に定められた。また中馬を扱う村と,村毎の馬の数も定められた。それでも,合計すると馬は1万頭を超えており,中馬需要は増え続けた。中馬と宿場の争いは,明治時代まで続いた。伝馬は今日の運送業へとつながる。