水運と陸運
 
 物資の運搬手段は,人力,牛馬,船の三手段に大別される。古代においては,馬による輸送は,もっぱら農民が無償の労役として領主に奉仕していたが,荘園時代も終わりに近くなると,これを商売にする農民も現れた。平安末期に 書かれた『新猿楽記』には,色々な職業が紹介されているが,その中に「馬借」 も登場している。馬は鞍を付けて直接荷を乗せるが,牛の場合は車を引かせた。「馬借」と同時期に「車借」なる業者も確認されている。公的制度としては,律令制度の下で駅戸・駅馬の制度がもうけられ,主要道の30里毎に駅馬が置かれた。馬は駅に着くと,次の馬と荷を交換した(駅伝制度)。
 鎌倉時代からの貨幣経済の普及に伴い,日本の陸路は早々に全国規模で整備され ていたと思われるが,実際には,南北朝の動乱,応仁の乱,そして戦国時代が次々に 到来し,陸路の整備はままならなかった。群雄割拠の時代には,領地の境毎に関所が 設けられ,自由な往来を妨げた。しかし次第に有力な戦国大名が領地を拡げ,国境の数が減っていくと,関所も少しずつ撤廃されていった。その結果,各地に宿場町が発達 した。宿駅には,旅人のために伝馬が用意され,渡し場の宿には船も用意された。 さらに織田信長が,広大な占領地で次々に閑所を撤廃し,道路を整備したので, 主要陸路の自由な往来が可能になった。豊臣秀吉もこの政策を継承し,有力寺院の関所 も撤廃した。
 遠隔地に物を運ぶ場合,陸上では,輸送能力に限界がある。特に米は重量があるので, 農民が無償の奉仕をしなくなり,運賃が必要になった荘園時代には,既に船による輸送が主流となっていた。馬が1頭で運べる米は二俵(90〜120也)で,100石(15トン)の米を運ぶには,馬125頭以上が必要で,しかも通常,馬1頭に人夫1人がつく。
 船による輸送は,荘園時代までは古代以来の単材到船,すなわち丸木舟が使われていたが, 鎌倉時代に入ると,複材到船(中心部の前と後に木材をつぎ足した船)に,板を舷側につけ加えて荷を多く積めるようにした船が主流になった。中型の準構造船である。米を一度に 100〜300石積めるので,馬とは比較にならない。運賃は,陸運の半分ないし四分の一 以下であった。船の有無は大きな差となり,平安時代,美濃より東の国は,米をほとんど 中央に送らなかったが,中国,四国,九州からは,瀬戸内海の海運によって,多量の米を送った。平安末期には,都では,「鋲西米」(主として筑前米)が有名ブランドとなっていた。
 室町時代になると,商品の流通量が著しく増大したため,船の大型化が急がれた。500石積み, 1000石積み,1500石積みと,巨大化の一途を辿り,明に渡航する遣明船では,2500石のものが建造された。500石積み以上の大型船は,準構造船では無理で,船底の航(かわら)と称する部分に平板を使い,外板の全てを板で構成した,完全な構造船へと移行した。大型船の建造には,古代より瀬戸内海を活動の場としてきた各地の水軍の技術の蓄積が役立った。